あくまでも、個人的な感想です。
まー、ミサですが‥。私の父が命名の際に1文字、聖書の中から取った場所は、詩篇23だったと聞いたのは、4世代旅行中で‥
家に帰ってから調べてみたら、エリザベス女王の国葬で使われていた、THE LORD IS MY SHEPHERDの所だった!😭
普通、そんなところから娘の名前つける?、と、激しく激怒した訳ですが…。またね、その名付けた時の願い、想いが‥
「娘が何時までも健康で美しくあって欲しい その願いを込めて 幾つかの候補から選んだ会心の名前だよ‼️」(LINEからコピーしました)
だそうで…(笑)旦那とのコミュニケーション並みに、詩篇23が、噛み合わないという。
お葬式の時の讃美歌は教派によって違う、自分の(父)の両親、姉、弟の時の讃美歌は、「真白き富士の根」だった!、と、あっけらかんと私の怒りを交わし、挙句の果てには、ましろき解説までされたという(笑)ちょっと、葬式繋がりで、たまたまゴルバチョフ検索してたら‥
ゴルバチョフの痣が、北方領土に見えた、っていう政治家いたみたいですが、個人的には、激しく同意🤣
この政治家の事は、ましろき解説並みに、父が昔、なんか言ってた気がする(笑)
話を戻しますが、昨日、ふと、父方の名前の付け方が少し変(笑)、私の知ってる限り父の兄妹弟、みんな1文字なのに、何故か父だけ2文字で。
もう、ここら辺から全能の神の仕込み(笑)が始まっていたのではないかと、今は感じているくらいなのですが。
父の名は富士山、日本を代表する日本一の山から、二文字取って命名されています。日本には、富士山の神、富士山信仰というのがあって、木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)が富士山の守り神…。
そして、私の父の、私の名前の命名時の、願い、想いは、富士山信仰の話を読むまでわからなかったのですが、私の父は、この木花咲耶姫命の水の神のイメージ(美)があったのだと思う。そう思えば、娘がいつまでも健康で美しく、の願い、の話が噛み合う。でも、木花開耶姫は、美人薄明、若くして命を落としてしまっている、な、上に守り神!正直、私には、この、親を守らせるような名付けのイメージの発想は理解出来ない。
逆に何かに守られた発想なら…
911の時‥テレビを見ていて、何故だか無性に、何かから助けられた印象を受けた。助けられたのが日本なのか、私(笑)なのかは、わからないけれども。あの時の感情は本当に何の根拠も全くなく、当然説明もできないのだけれども、マスコミ教から守ってくれたのかもしれない。
そして、娘の塾のお迎えに行った時、信号を無視して、見通しの悪い横道から猛スピードで出てきた車、勝手に動いたとしか思えない、あの奇妙な感じの、サイドブレーキをパーキングに入れてた事、あのスピード感から行けば、生きているのが不思議なくらいです。普通なら、あの時、娘を連れて死んでいたのかもしれない。全能の神は、この時も、私に死なせる訳には行かなかったのかもしれない。私の命、そして身体に、あからさまに(笑)手を出してしまったんだろうなぁ。物語を完結させる為に。
ただ、父の発想、「何故、聖書から」が解決しない。
富士山を鎮火する水の神‥。父を守る?
数分後、ぴーーんひらめく、ん?これは?🧐
私が、結婚前の旧姓の時に、名前で嫌な思いをしたのを、「お前、そういえば、名前で虐められた、って、子供の頃言ってたなー。」と。
孫が、この前の4世代旅行中に、その私が嫌だった歌を歌っていて、私が顔を曇らせたことに、父は気がついたのかもしれません。
だからこそわかる、聞いたことはないけれども、私の父は、富士山から取られている名前が、実は嫌だったのかも、と。
この父の名前の嫌さを、私が理解するように、私は、そもそも歩かされていたのかもしれない。
父は、富士山の噴火も怖かったのかもしれない、そんな父の元に‥
丙午の娘が生まれてしまった!
陰陽五行説によると,丙も午も火の性を表すところから,これにあたる年は火災の発生が多いという俗信があり,また江戸時代以来,この年に出生した者は気性が激しく,ことに女性は夫となった男性を早死にさせるという迷信がはびこった。
おそらくだけれども、元々人の良い、気の小さい父の事、さぞかし焦っただろうなぁ、と。ちなみに、私は確かに、気は強い。旦那に屈服しない、筋が通らなければ納得しない、のも、この性格からもあるかもしれない。
それでも、私は、父に叩かれたことも、怒られたことも記憶にないんです。ホントにいつも温厚で。
父の人生は、火🔥に取り憑かれているかのような人生、戦火、富士山の噴火、家計の火の車、丙午に生まれた娘の火の迷信…台所の火!もあるっ!だからかぁ、父が、昔は縦のものを横にもしなかったのに今は家事ができるのは(笑)!
この火🔥に取り憑かれた様な人生のイメージを待たす、これぞ、神の仕込み(笑)
そもそも、聖書…神様に「水の力」の救い、水を求める父の気持ちと、全能の神の、創世記の水を繋いで欲しいという願い、が一致していたのかも。
父の気持ち、を思えばこそ、下(私の父の欲しがる)の水、と、上(全能の神が繋ぎたい)の水を、聖書の創世記で繋げるのかもしれない。
全能の神は、謎を解く人を、必ず、謎が解ける様に、あらゆる手を使って、幼い頃から育てていた様な気がします。
この両父の想いを踏まえて、詩篇23を読み直したら、主は、全能の神、「わたし」の部分が全て、私ではなく、キリスト、と、読めるようになるんです。
詩篇23
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
※(肖像画として)伏させ:隠れる。潜む。また、隠す。潜ませる。
みぎわ: 海・湖などの水の、陸地と接している所
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
※魂をいきかえらせ:肖像画似の人と出合わせ
※正しい道:私が昔、肖像画を見つめて尋ねた、「この人、何を失敗したのだろう」の、「解答」と、この解答を見つけた時、旦那が、前後の会話無しで、「なんか頼まれてる?」って言ってた謎も、個人的に解けたという。
ちなみに、何かを頼まれた記憶も、何かを頼んだ記憶も全くない!(笑)
キリストは、自分を3度否んだペテロに、自分を愛していると告白するチャンスを3度与え、自分の羊を彼に(ペテロ)に任せる、と、宣言した。
キリストが与えた、「自分を愛していると告白するチャンス」は、単なるペテロに自己愛のカミングアウトをさせた、そして、ペテロの返事…
あなたは私があなたを愛していることをご存知です!
あなたは私があなたを愛していることをご存知です、って、そんな事は言葉で表さないと、相手(キリスト)に届くはずないじゃん、って話✨
キリストは、愛を知らない。
ここら辺に、全能の神が、私にキリストの肖像画似の人に恋愛感情を持たせ、子煩悩、子供好きな父の元で育せさせ、子どもへ(私とキリスト)、愛のある生き方を、父親の愛(私の父と、全能の神)をキリストと私に教えた、というトリックがある気がしてならない。私は、その後、父親としての愛がない、ま、薄い、ですね、な、旦那と暮らし、その差を思い知る。
全能の、キリストの父は、キリストが同じ失敗を繰り返すのを見かねて、別の手(創世記の時点でキリストに愛を教える)また、その愛ある手を、語り手として私に話させる事を望む‥。
全能のキリストの父に、私は単純に生かされていただけかも(笑)。
牧の民、の辺りは、私はそんな話、誰からも聞いてないけれども、ペテロの部分が万一、解けてしまった時に用意してあった道では‥。
これ書いてて、全能の神の、キリストに対する親心が、愛情溢れていて、涙が溢れるほど感動してしまったのですが…。相当、手を込んで、あれこれと仕込んでいたはず(笑)
全能の神と、同じ、親目線でいけば、何度も磔にされる息子の姿を見るのは、もう限界なのかも。
今回が聖書、物語の最終回の様な気もします。
そして、ここまで書いて、無性に何かが足りない事に気づく‥。乾いた土地‥、陸地‥。
天国への鍵…
鍵はあるけど、入る、辿り着くべき場所がない(笑)全能の神は、聖書の中で自分の居場所を明かしていないし、おそらく、造るのを忘れた、だから、キリストの霊も、人の霊も地上で彷徨っている‥。
全能の神の中でのキリストは、あくまでも、自分の可愛い、そして何よりも大切な子で、一度天国に、自分の手元に帰らせたいのかもしれませんね。
全能の神は、人類の、実は優しい‥、暖かいお父さんだけれども、少し、おっちょこちょいだったのかもしれませんねー。早く会いたいーー!w
God bless you!